世間に違和感なく浸透して、親しまれてる飲み物、コーヒー。
しかし、コーヒーがどこの地で、いつ発見されたかについては確かな記録は残っていない。
コーヒーの原料となるコーヒー豆は”コーヒーノキ”という植物の種子から作られます。コーヒーノキはアカネ科コフィア属の常緑樹で、1年に1〜2度花をつけ、花が落ちるとコーヒーチェリー と呼ばれる赤い実がなり、この中の種子がコーヒー豆です。
今回は、そんなコーヒーの歴史を紹介していきます!!
西暦900年ごろにペルシャの医師ラーゼスによって書かれたのもとされている。彼の文献には、コーヒーの種子を煮出した汁を患者に飲ませ、「その汁には胃がよくなり、覚醒、利尿の効果がある」という趣旨のことが書かれていた。このように、コーヒーは当初、まだ飲み物や嗜好品としてではなく、完全に薬のひとつとして考えられていたようだ。記録には煮出した時の香りについても触れられていた。しかしまだ焙煎という手法は生まれておらず、種子、もしくは実をそのまま煮ていたと思われ、現在ほどの芳醇さはラーゼスも味わっていなかっただろう。
諸説1
ひとつめはアビシニア(現在のエチオピア)に伝わる話です。カルディという羊飼いが、ある日、赤い実を食べて興奮する山羊たちに気づきます。自ら食べてみたところ、爽快な気分になり、以来、近所の修道院では、この実の汁を儀式の眠気覚ましに利用した、というものです。
諸説2
2つめは、イエメンの町・モカでの話です。イスラム修道者オマーンはある不祥事で町を追われ、山中の洞窟で暮らしていました。ある日、美しい鳥に導かれ発見した赤い実を煮出して飲むと、空腹や疲れが癒され、これを人々に教えたというものです。
コーヒーノキの中でも高品質とされるアラビカ種「ティピカ」の原産地は、伝説に出てくるアビシニア高原だといわれています。ここに自生しいた原種がイエメンに移植され、ジャワ島へ伝播し、西インド諸島を経て中南米諸国へ広がりました。
コーヒーが薬としてではなく、飲料として飲まれるようになったのは、13世紀中盤ではないかともいわれている。15世紀から16世紀にかけては、アラビア人によって、イエメンで本格的なコーヒー栽培が開始された。当初はコーヒーの樹木、豆すら国外への持ち出しは禁止であった。メッカへ巡礼するイスラム教徒たちから徐々に漏れ伝わり、世界各地に伝播したといわれている。いずれにしても、あの焙煎のときに立ち込めるなんともいえない芳ばしい香りをはじめに体験したのは、この頃のイスラム教徒たちに間違いなさそうだ。
16世紀に入ると、当時隆盛を極めていたトルコ帝国のセリム一世が、エジプト征服後にコーヒーを持ち帰り、1554年にはコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に世界で最初のコーヒーハウスをオーピンさせた。当時は、「賢者の学校」と称され、絨毯敷に、上品な調度品をそろえ、装飾にも気を遣った店であった。さまざまな職業が集まる社交場としての感も呈していた。
この時期、コーヒー飲用の是非を巡ってイスラム教の指導者たちが、大きな議論を展開したことがあった、コーランの教えに反するとして禁止の措置が発表された。しかし、すでに民衆文化に根ざしていたコーヒーは、教義を持ってしても、禁止令は間もなく解かれた。
1615年、コーヒーはイタリアのベネチアへと伝わるが、まだまだこの頃のコーヒー産業は貿易とともにイスラム社会が掌握していた。
イギリスでは、1650年最初のコーヒーハウスがオックスフォードに「ジェイコブス」というコーヒーハウスが開店する。その2年後にはロンドン市内に最初のコーヒーハウスができ、30年後にはロンドン市内だけでなんと3000軒のカフェがあったとか。世界的な保険会社として知られる。「ロイズ」などは、もともとコーヒーハウスとしてスタートしました。
パリでは1686年に最初の本格的カフェとして「プロコプ」が登場します。理性の世紀を象徴するように、パリのカフェは知の発信基地。ヴォルテール、ルソー、ディドロなどの啓蒙知識人が集い、交流を繰り広げました。さらに18世期後半になると、パリのカフェは上流階級のサロンから大衆の集まる場所へと変貌していきます。当時の有名カフェは、政治勢力のたまり場やフランス革命の司令室として機能しました。
この時代に、欧米諸国は、コーヒーの輸入を開始し、オーストリア、フランス、アメリカ、ドイツ、スウェーデンなどでも、コーヒーハウスは一気にその数を増やした。世界のあちらこちらでコーヒー文化が花開いていた時期と言えよう。
またイスラムと同じように、この時期キリスト教圏においてもコーヒー飲用の是非は宗教問題となった。なんといっても敵対するイスラム圏の産物だったからだ。当時の教皇クレメンス8世により、コーヒーはキリスト教徒の飲み物として認められた。
1695年、イスラム商人とって転機を余儀なくされる大事件が発生する。それまでのコーヒー栽培は、イエメン地方のイスラム教寺院内で行われており、国外への持ち出しは厳禁であった。しかし、それが盗まれてしまったのだ。盗んだのはイスラム教徒のインド人、ババ・ブータンという男で、メッカへの巡礼に来たときに密かにインドへ持ち帰り、南インドのマイソール海岸で栽培に成功する。これが現在まで続く生涯の原木となり、南インド一帯にコーヒーが広まり、今日まで続く生産地を築いたのである。
このブータンの行動がこれまでのイスラム商人独占市場に風穴を空けたような形になり、コーヒーにより莫大な利益をあげていたイスラム社会の貿易が少しずつ終焉へと向かっていくこととなる。
今日、中南米でのコーヒー栽培が盛んだが、それを広めたのは18世紀前半にフランス海軍に所属していた、将校ド・クリューだといわれている。
彼は、航海中、自分の飲み水を注いでまでコーヒーの苗木を守り、無事フランス領マルチニーク島に運んだという逸話が残っている。これがやがて中南米へと広がっていった。
このように、コーヒーの広まりと同時に、コーヒーの栽培も世界各地へ拡大していった。
地中海貿易によって、早くからイスラム圏と交易を行なっていたイタリア。一説によれば、ヨーロッパ最初のカフェは、ヴェネツィアで誕生したといわれています(1645年)。17〜18世紀半ばにかけて各地にカフェが登場しますが、そのなかには現在まで続いているものも。カフェ史として特筆すべきは、カフェはイタリアでカウンターを備えた「バール」の形態に徐々に変わっていったことです。
ドイツでも17世紀後半から18世紀前半にかけて、ハンブルクやライプツィヒ、ベルリンなどの都市でカフェが登場しています。しかし、それを圧倒する形で、ドイツでは女性たちが家庭でコーヒーを楽しむ習慣が広がっていきました。「コーヒー・クレンツへェン 」と呼ばれる集まりで、かのJ・S・バッハが作曲した『コーヒー・カンタータ』には、コーヒーに夢中ぬなる女性に対する男性陣の困惑が描かれています。
アメリカ最初のコーヒーハウスは、1689年には営業を開始していたとされるボストンの「ロンドン・コーヒーハウス」です。その後、ニューヨークやフィラデルフィアといった都市にコーヒーハウスができますが、コミュニティにおけるパブリックスペースの役割も担ったいたようです。
1773年にはボストン沖に停泊していたイギリス東インド会社の船を市民が襲撃し、積み荷の紅茶を海中に投棄するという「ボストン茶会事件」が起きますが、これをきっかけにアメリカは紅茶よりもコーヒーを好む国となり、西部開拓時代を経て、世界最大のコーヒー消費国となっていきます。
アフリカ西岸地域の植民地でプランテーション経営を開発した欧州の植民地大国は、その後新大陸の植民地でプランテーションを拡大する過程で、何百万人にも上るアフリカ人を奴隷として輸送した。植民地大国による最初期のプランテーション経営例は砂糖であり、これは西半球における欧州諸国の植民地開発の基盤となったが、恐ろしいほどの勢いでプランテーションが発展した理由はその適応性にある。何を生産するかなどは経営者の眼中になかった。投入プロセスとしてアフリカ人奴隷の輸入が安定して続く限り、その恐るべき効率性で栽培できるものは何でも産物として収穫した。これはアメリカ大陸における他の植民地作物栽培に、いとも簡単に適応できる生産体制であった。例として、バージニアのタバコ、ジョージアの綿花、南部のコーヒーなどが挙げられる。
1830年代までに、コーヒーは奴隷制度下で生産される最大の作物となった。コーヒー栽培はカロライナのピードモント地域におけるタバコ農園、ミシシッピ・デルタにおける綿花畑、カリブ海の砂糖島の日ではない。南北戦争以前は、大西洋奴隷貿易で主に奴隷を取引したのはリオデジャネイロやサンパウロの大規模なコーヒー農園経営者であった。19世紀前半にブラジル南東部におけるコーヒー栽培地周辺の奴隷輸入港に輸送された奴隷の数は、同期間にカリブ海地域全域に売られた全ての奴隷数を合わせた数より多いというだけでなく、大西洋奴隷貿易を通じて米国に輸入された総奴隷数の3倍超に上っている。
この時期に世界有数のコーヒ生産国に成長したブラジルは、ほぼ200年に渡り深刻な問題や中断なく繁栄を続けた。ブラジルでのコーヒー栽培を目的に奴隷船で搬送されたアフリカ人は、急いで内密に内陸部の農園に送られ、そこで強制労働に従事させられたのである。こうして生産されたコーヒーは奴隷が到着したのと同じ湾港から、コーヒー需要が急増した世界に向けて輸出された。その主な輸出先は米国であった。
建国後まもなく工業化と共に西部開拓時代に突入していた米国では、熱心なコーヒー摂取の習慣がその消費量増加を支えていた。1800年代に米国人口が15倍に増加したのに伴い、一人当たりのコーヒー消費量が150倍近く上昇した。米国のコーヒー消費量とブラジルのコーヒー生産量は世界一を誇り、米国での需要が高まるにつれ、ブラジルの経営者が購入するコーヒー農園奴隷の数も増加の一途をたどった。
これが近代のコーヒー産業の起源である。ブラジルの栽培分野および米国と欧州におけるコーヒー焙煎工場の両方の観点から見たコーヒー生産工業化により、世界でコーヒー市場が継続的に拡大する時代が到来した。これは大規模なアフリカ人の拉致、奴隷化、強制労働、犠牲がなければ、叶わなかった世界である。
しかし、、米国史と同様に、多くの場合、コーヒーの「オリジンストーリー」でも奴隷の貢献が完全に無視されている。ごく稀にコーヒー史に奴隷制が登場することはあるものの、それは主要事例にまつわる些細な出来事や単なる参照、またはひそひそ話的な逸話である傾向が強い。しかし、奴隷制はコーヒーの歴史の中で偶発的に存在したものではない。これはコーヒー産業発展の支柱であったはずだ。奴隷という労働力があったからこそ、裕福でなければ味わえなかった贅沢品が一般庶民でも手の届く大量生産品となり、世界的な流通網を伴う豊かな産業の確立につながった。それにもかかわらず、コーヒー市場の発展に著しく貢献した無数の奴隷の存在は、その公式の歴史からほとんど弾き出されている。
以上コーヒーの歴史を紐解いてきました。
個人的に衝撃だったのは奴隷制度によってコーヒーが世界に広まっていったということ。
普段何気なく飲んでいるコーヒーは黒人の手によって作られているんだなと。現在いろんな国でコーヒーを生産されていますが、まだまだ過酷な労働を強いられている国もあります。こう言った事実はなかなか知り得ないし、知って想像したとしても、現実には遥かに及ばないことでしょう。
ロースターやコーヒーショップに出来ることは、事実を受け止め一杯一杯を提供することではないでしょうか。
現在はフェアトレードを実施している会社も増えています。今後もこういったことから、少しでもコーヒー農家が良くなる、持続可能な社会になっていくことを願います。では。
参考文献 :
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