【珈琲】コーヒー消費大国、日本のコーヒーの歴史

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コーヒー消費大国、日本その消費量はEU、アメリカ、ブラジルについで世界第4位であり、世界の珈琲消費全体の約5%に及びます。

日本におけるコーヒーの消費量は今や世界トップクラスですが、初めてコーヒーを飲んだ日本人は未知の味にかなり驚いたようです。それはまさに文明開化の味でした。

江戸時代、鎖国をしていた日本にとって、唯一、外国との窓口だったのが長崎出島。最初にコーヒーを飲んだ日本人は、おそらくそのオランダ商館に出入りしていた通詞(通訳)だろうと言われています。

幕末になり、蘭学者などがヨーロッパ文化への関心からコーヒーを味わい、効能を紹介し、輸入も始まります。しかし、日本人の嗜好にはそれほど合っていなかったようで、狂歌師・大田南畝によれば、「焦げ臭くて飲めたものではない」という飲み物でした。

1826年、そんな日本人に「コーヒーは長寿をもたらす良薬である」と引用を勧めたのが、長崎出島のオランダ商館付きの医師、シーボルトだった。しかし間も無く彼は国外追放となってしまい、またしても日本のコーヒー文化は足踏み状態になってしまいます。

そして1854年、日本は不平等な日米修好通商条約に調印。1858年には、ついに正式にコーヒーの輸入が開始される。

開国後、横浜の外国人居留地の西洋人を中心に、国内でもコーヒーが飲まれるようにないり、1888年には上野に本格的なカフェ「可否茶館」が開店します。明治末になると一般の人も洋食屋コーヒーを口にする機会が増えます。銀座にオープンした「カフェ・パウリスタ」は本格的なコーヒーを安価に提供したため、ハイカラ好きな文化人や芸術家が集い、日本のコーヒー文化がようやく花開きます。

昭和になり戦争の足音が聞こえてくると、コーヒーは「敵国飲料」とみなされ、1942年には輸入が全面停止。輸入が再開されたのは、終戦から5年後の1950年のことです。アメリカで開発された「インスタントコーヒー」が紹介されると、その手軽さが受け、国内でも続々と製造が始まり、一気にコーヒーは日本人の間に定着していきました。

豪華な内装の純喫茶、音楽も売り物にする名曲喫茶やジャズ喫茶、さらには歌声喫茶や山小屋喫茶など、さまざまなスタイルの喫茶店で続々と登場します。そして、1970年ごろになると、「コーヒー専門店」を掲げる店がブームとなりました。その多くはオープンカウンターを備え、産地別のコーヒーを揃えて、サイフォンやドリップで淹れたコーヒー を提供するというスタイルでした。コーヒーを楽しむためのカフェとしては当たり前と思えるスタイルですが、実は、こうした形態のカフェは、欧米ではほとんど見られないものでした。つまり、日本で独自に発展したものと言えます。また、小資本でも開店できるため、脱サラした会社員や主婦、元OLがマスターや店主として店をオープンさせるケースも多く見られました。こうしたブームもあり、1980年には、喫茶店は日本全国には、15万軒を数えるほどになったのです。

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日本のコーヒー文化を育んだカフェ、パウリスタ

現在は、銀座8丁目に店舗を構える「カフェ パウリスタ」。このお店が100年近く前から存在し、日本のコーヒー文化の発展を築いたお店であることをご存知だろうか。

銀座店の創業は明治44年12月12日。創業店は現在の銀座7丁目にあたる場所にオープンした。当時の銀座は日本を代表する文化街。多くの新聞社や外国商館が立ち並び当然、進歩的な知識人が闊歩する一角であった。多くの学生も訪れ、中でも慶應の学生は三田キャンパスより徒歩で銀座に赴き、その終着点がカフェ パウリスタであった。

銀ブラというと、銀座をブラブラ散歩するという意味に用いられているが、もとは銀座でブラジル珈琲飲むこと、つまりブラジルコーヒーの代名詞、カフェ パウリスタでコーヒーを飲むことを意味した。この言葉を生み出し、流行らせたのが彼ら慶応の学生だったとされている。

ブラジル珈琲=パウリスタとなった背景には、日本とブラジルの移民交流の歴史が深く関わっている。創業者であり、ブラジル移民の父と呼ばれた水野龍氏について触れておこう。

明治41年、移民船「笠戸丸」は初のブラジル移民793人を連れて、夕闇迫る神戸港を出発した。この移民たちを団長として率いたのが水野氏であった。当時日本は食料不足で、新天地へ転身し、暮らしていこうという考えの持ち主が多かった。

地球の反対側の南米で、移民の道を拓くのは困難を窮めたが、実直勤労、約束をしっかり守る日本人の存在は、ブラジルでも大きな信頼を勝ち得た。そんな移民たちを引き連れた水野の功績をたたえ、サンパウロ州政府は珈琲豆の無償提供を決めた。そこには、コーヒーというブラジルの一大産業のPRと、日本を新たなマーケットと見込み、コーヒーを普及する狙いもあった。

この無性珈琲があってこそ始められたのが、カフェ パウリスタであった。当時は「もりかけ、銭湯3銭」の時代。お店では一杯5銭という破格で珈琲を出した。舶来品を低価格で提供できたのも、材料費がただであったためなのだ。

しかし当時はまだ庶民に西洋の食品が珍しかった時代。強烈なブラジルの味とアロマをあわせもつ珈琲をいかに広めていくかに水野氏は苦心したという。

実は日本生まれの缶コーヒー

誰でも気軽に飲めるコーヒーの代表格、缶コーヒー。その考案者は、UCCの創業者、上島忠雄氏だ。駅の売店で瓶入りコーヒー牛乳を飲んでいた上島氏は、列車のベルが鳴り、飲み残しを店に戻すことを残念に思い、「缶にすれば持ち運べるのに」とひらめいた。こうして、1969年、世界で初めての缶コーヒーが考案された。当初は売り上げが伸びなかった缶コーヒーでしたが、大阪万博で火がつき、以来、日本のコーヒー文化を支える一翼に成長しました。

コーヒー関連でもうひとつ世界初となったのが、ポッカが1973年(昭和48年)に開発した自動販売機です。ホット/コールド機能付きの自動販売機は、缶コーヒーのみならず、飲料製品のスタイルに革命をもたらしました。「自販機で缶コーヒー」は現代日本の象徴とも言えるでしょう。

現在では1年に100億本もの缶コーヒーが日本で飲まれている。

時代はスペシャリティコーヒーへ

1980年代に入り、人々に嗜好が細分化されるなかで、喫茶業界はある意味での飽和状態を迎えます。冬の時代を抜けるには、90年代後半を待たなくてはなりません。これまでにない新しいスタイルのカフェが登場しました。

そのひとつが、レストラン並の食事を売り物にするカフェ。そして、もうひとつが、「スターバックス」や「タリーズ」などに象徴される、エスプレッソバースタイルのカフェです。エスプレッソバーは、1970年代にはアメリカのシアトルで始まったものですが、80年代アメリカで市場を拡大し始めたスペシャリティコーヒーを日本い広めた立役者でもありました。今やこのスタイルが、日本のみならず世界的にカフェの象徴になりつつあります。

生産地としての日本

日本のコーヒー生産の歴史は、1878年にまでさかのぼります。この年、東京農業大学の創始者である榎本武揚が、小笠原諸島の温暖の気候に着目してコーヒー栽培を試みたという記録が残っています。しかし、首都・東京は北緯35度、小笠原諸島の父島でも北緯27度と、コーヒーベルト(赤道を中心とした北緯25度から南緯25度までの範囲)から外れています。また、島の場合は高温多湿で標高差が少なく、加えて台風の通り道であることも多いため、コーヒーノキの生育条件として極めて厳しい地域。特に台風は例年7〜9月の間に平均15件も発生するといわれており、一度直撃すれば、暴風によって植物は根こそぎ倒れてしまします。そのため小笠原諸島や沖縄、鹿児島の奄美群島などでコーヒーノキの栽培を試みていた形跡はあるものの、産業として根付くまでには至りませんでした。その厳しさは今でも変わりませんが、生産者の意識は、ここ数年で着実に変わってきているようです。

その契機となったのが、2016年。沖縄本島北部の国頭村安田で、コーヒーノキの栽培を行なっている農業生産法人アダ・ファームが、日本初となる生豆のスペシャリティコーヒーの認定を受けました。CQIアジアのQグレーダー3名が80点以上の点数をつけ、スペシャリティと呼ばれる品質のコーヒー豆を、自分たちの農園から生み出したのです。

コーヒー生豆輸入量 : 約43万t

コーヒー生産量 : 約400Kg

コーヒー栽培地域 : 沖縄県、東京都・小笠原諸島、鹿児島県・徳之島、沖永良部島など

国内のコーヒー消費量に占める国産コーヒーの割合 : 1%未満

まとめ

以上、日本のコーヒーの歴史をまとめてみました。

海外から伝来して以来喫茶店文化が盛んだったり、缶コーヒーを発明したりと日本は日本で独自のコーヒー文化を発展させたと言えんるんじゃないでしょうか。

喫茶店文化やホスピタリティ、コーヒー抽出に対する姿勢は海外にも注目されるほどです。

コーヒー豆を生産している人もいたり、今後も発展していく可能性が大いにあります。

普段はたかが一杯のコーヒーですが、いろんな側面から見ることができ、いろんな人の想いで発展してるんだなと。

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